七色海月は水槽の中で眠る

現世こそ夢、買い物はゆめタウン

散文的に笑う僕と、詩的に笑った彼女

 ハイロウズの「青春」は正に僕の青春だった。

 陽キャがクラスの女の子と盛り上がっている頃、僕たちオタクは教室の隅っこでアニメの話で盛り上がっていた。
 女子と話したいと思ったこともあるけれど、言葉につまりキョドってしまうし、目を合わせても、恥ずかしくて直ぐに逸らしていた。陽キャには陽キャの青春があり、僕らには僕らの青春がある。金子みすゞではないけれど、みんな違ってみんないい。青春の形が違うことに僕は不満を抱いたことはなかった。

 そんな僕にも青春の言葉の意味が変わる出来事があった。とてもベタな話なのだけれど、オタクは惚れやすい。どれくらい惚れやすいかというと、目が合えば好きになってしまうくらいだ。女子に免疫がないのもあるだろうが、とにかく、とても簡単に好きになってしまう。
 そうしてその時は何の前触れもなく訪れた。授業中に寝ぼけて、消しゴムを落としてしまったのだ。あっ落ちたと、頭で理解して手を伸ばす前に、隣の席のA子さんが席から立って消しゴムを拾ってくれた。はいって、小さく微笑んで僕の机に置いてくれたのだ。切っ掛けはそれで充分だった。有り体に言うと、僕は恋に落ちてしまった。

 それからというのも、僕はA子さんのことを考えて過ごすようになっていた。授業中でも、食事中でも、お風呂の中でもだ。頭の中ではいっぱいお話をするのに、実生活では変わらず目も合わせられなかった。
 それでも、少しでも、彼女のことが知りたくて、休み時間は寝るふりをして、彼女と女友達の会話を盗み聞きしていた。今思えばバレバレだったと思う。当時のことを思い出すと今でも恥ずかしくて、土に埋まりたくなる。

 A子さんは仲間由紀恵さんに似ていた。腰まである長い艶やかな髪に、愛嬌のある笑顔、クラスの誰からも好かれているような存在だ。僕はA子さんのことを何も知らなかった。お気に入りの音楽がハイロウズなことも、俳優の阿部寛が好きなことも。全部盗み聞きをして知ったことだ。そして、話を聞いているうちに、好きの気持ちはもっと大きくなっていた。
 自分を変えるには今しかないと思った。自分に自信なんて言うものはない。ネクラな陰キャ野郎だ。どうやって女の子と話せばいいのかも分からない。それでも、このまま何もせずに彼女と話す機会を失って後悔をするのは嫌だった。

 次の日、僕はA子さんに、朝の挨拶をすることにした。早めに登校し、自分の席に座った。MDプレイヤーでハイロウズを聴きながら、虚空を見つめていた。緊張が最高潮に達していた。たかが挨拶、されど挨拶。キモいと思われたらどうしようなど、最悪の想定が脳内をぐるぐる回っていた。手は汗でぐっちょりと濡れていて、フルマラソンを完走したような人になっていた。
 心の中ではそわそわと、外見は至って平静を装いながら待っていると、A子さんがドアを開けて入って来るのが見えた。声をかけようとしたが、思いとどまった。遠い距離から声をかけても誰に話しかけているか分からないと思ったからだ。緊張から早く解放されたいと一層鼓動を早くする心臓を懸命に抑えながら、僕はA子さんが席に座るのを待った。それは永遠に思える時間だった。一歩一歩と近づいてくる彼女の気配。リノリウムの酸いた匂いが、白くて可憐な花のような柔らかい彼女の香りでかき消される。
 僕は決心をし、出来るだけ自然に「おはよー」と声を出した。上ずっていたかもしれないし、声になっていなかったかもしれない。一時の沈黙のあと、彼女は純真な笑顔で僕の方を向いて、「おはよう。山田君」と声をかけてくれた。あまりのこっぱずかしさに、「っす」みたいな返事をして、そのまま机に突っ伏したのを覚えている。どう考えても変人だが、その頃の僕には精一杯だったのだ。その日はそれからずっと上の空だった。オタ友とのトークも、「はー」とか、「へー」と生返事ばかりで、大好きなアニメの話でも耳に全然残らなかった。

 それから、僕は少しずつ勇気を出して距離を縮めた。話題が作れるように、阿部寛の出るドラマ(確かトリックだった)も観て勉強したし、挨拶以外にも話かけた。
 毎日の通学が楽しくなってきたとき、僕は見てはいけないものを見てしまった。A子さんが、バスケ部の長谷川君と逢瀬を楽しんでいるところを目撃してしまったのだ。考えれば当たり前のことだ、A子さんのような可愛い人に恋人がいないわけがない。当然とはいえ、想像力が欠如していた自分を呪い殺したかった。僕は胃袋の中に石を詰められた囚人のような気分になっていた。

 どうしようもなかった。やり場のない感情が体の中で暴れまわっていた。少しでも早く吐き出して楽になりたかった。告白なぞ出来るわけがなかった。会話ができる関係までも壊したら、僕は本当にどうにかなりそうだった。亀裂の入った体を抑え、あくまでもいつも通りに、誰にも何も気付かれないように精いっぱい過ごした。

 放課後になり、クラスメイト達は部活に行った。教室が僕一人のものになったのを確認すると、掃除用具入れから箒を取り出し、ため込んだエネルギーを解放した。

 夕焼けに赤く染まる教室で、髭の飛び出た箒を片手に、喉を潰すほどの大声を張り上げた。何千回も聴いた「青春」を歌ったのだ。僕は不良じゃない、ただのオタクだ。オーディエンスはいないし、歌を歌う意味もない。それでも、声を出さずにいられなかった。声を出すならこの曲しかなかった。音階なんてものは分からないし、箒では音を奏でられない。それでも、あの時の僕はロックだった。